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「余白」と「間」。作品について、少々。


タイトルにもある通り、余白と間いうものについて少し記しておきたいと思います。


わたしは余白が好きです。

以前、私の作品にはこの「余白」や「間」が無いと言われたことがあります。西洋画をされているからでしょう、というようなお話になりました。日本人は余白や間が好きな気がしています。「行間を読む」や、日本の武道でも「間合い」などという美しい言葉があるくらい。


ただ、おっしゃる通り、わたしは、自分の作品の中に余白はあまり作りません。

なぜなら、もともと、めいいっぱい紙が足りないくらい、向こう側まで描きたい気持ちがあるからです。

N°5と墨
N°5と墨

わたしが子供のころ、土の上に石ころで大きな絵を描いた、アスファルトの上に色々な色のチョークを使って理由なく絵を描いた、あの気持ちを忘れないようにと思っています。


この「理由なく」というところを大事にしていて、誰からも強制されない、ゴールも決めない、わたしの中の「余白」を少しだけ作っています。


大人になると、こうやって描けばうまくいく、カッコ良い線になる。それこそかっこいい余白を作れるようになってきます。そのようなたくさんの”理由”に囲まれてくる。それを”知識”や”理解”というのでしょうけれど。そういう”理由”がわたしの邪魔をすることがあります。ただ大人が描くわけですから、ちゃんと”大人として”意識を持って、画面いっぱいに描きたいと思っています。

猫とコーヒー豆
猫とコーヒー豆

物事や空間の「間」であったり、空気の「間」というものに近いかもしれないのですが、「余白」はありすぎても、間抜けな感じになりますし、全く無くても「間」が持てないような感じになる気がします。


「余白」や「間」は、好きです。


創作しながらその「間」を捜し続ける。そしてさまよう。

いろいろ理由はありますが、「人間らしい」私らしい「余白」を創り出せればいいのかな、と思っている残暑厳しい今日この頃でした。












 
 
 

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